ゆめゆめ

ゆめゆめ、わすれることなかれ

ポスト・ハローワールド

どうも、毛玉です。はてなダイアリーでは「毛玉」という名前で活動していた記憶がないですが、ブログでこの名前では、お久しぶりです。

このたび、「はてなグループ」サービス終了のお知らせをTwitterのタイムラインで知り、ああ、インカレナンチャラはてな会のページも終了なのかと思うと、私の浪人生~大学生時代のインターネット上の人間関係の全青春のデータが失われてしまうようで、焦ってCside(id:Cside)に連絡しました。どうやらはてなダイアリーからはてなブログへの移管作業のようにスムーズに他サービスに移行することはできないようで、データのエクスポートはできても移行先がないので、本当にサービス終了、終了らしいです。

突然この話を読んだ何も知らない人は、何の話をしているんだと思われるかもしれません。「はてな」というサービスから始まったインターネットにおける私の個人的な歴史を振り返るのは、私が単なる懐古厨であるということを明らかにしてしまうだけかもしれませんが、サービスの完全な終了と聞いて、また「はてな」に昔のアイディー(superfluou_s)でアカウントを取得して、この文章を書いてしまうくらいの熱量をひとりで消化できないので、ここにひとつの記録・記憶として残しておきたいと思います。

本当にとりとめのない、だらだらとした駄文になることは書く前から予想できますが、当時のことを懐かしく読んでいただける方はお付き合いいただければ幸いです。できるだけ、詳細に、当時の記憶を書くつもりです。

 

 

***

2008年、おそらく、夏~秋。私、18歳。

私が「はてな」のサービスに出会ったのは、18歳で自宅浪人生を京都でやっていた頃に遡ります。私はワケアリで不本意な理由から浪人生をやっていて、ほとんど自宅に引きこもっていました。不本意だった理由を先に書くと、現役で合格していた第一志望の東京の私大(結局そこを卒業しましたが)に授業料未納(納め忘れ)でBANされてしまうという、当時の私には相当ショックな出来事がありました。今書くと本当にしょうもないと思える一つの蹉跌によって、私は結構なストレスを抱えていて、ジンセーにゼツボーしていたのでした。当時はネトゲリネージュだったと記憶しています)をやるか、にちゃんねるを徘徊するか、毎日毎日勉強もせず、ただただ鬱屈として弛緩した毎日を過ごしていたように記憶しています。私の出身高校は国公立大学に特化したカリキュラムになっていて、京・阪・神か関西の教育大学をほとんどみんなが受験し、関関同立には受かっているので国公立を逃しても私大に行ってしまうという雰囲気で、自分の友人知人に浪人生はいませんでした。周りは皆大学一年生を謳歌しているのを当時全盛だったmixiで眺めつつ、卒業前に「おら東京さいくだ」と周りに宣言してしまったため、私を繋ぎとめるともだちや浪人仲間というのはいませんでした。唯一いた彼氏も、一緒に受験勉強をがんばり、一緒に関東に行こう、と言って、結局筑波大に行ってしまったので、彼氏とも京都ーつくばで離れ離れ、とにかくPCの前にずっといて、親を呪い、自分の人生を呪い、ストレスで顔も含め全身真っ赤なアトピーにおかされ、化粧もできず、外出もできず、とにかくPCの前でへの字口をしていたんですね。なんか、かわいそうだな。

前段が長すぎですが、こんな様子だったので、私は「同じような理由で大学にBANされちゃった人」を検索したり(京大で同じ思いをしてる浪人生ブロガーがいました)、文章の面白いブロガーのブログ更新をちいさな楽しみにしていたり(肉欲棒太郎さんの『肉欲企画』を読んでいたことだけははっきりと記憶しています、今調べると、インターネットみを感じる記事で更新が終わっていますね)、なんとなくブログ文化に触れることもありました。そんな中で、リンクからリンクへの繋がりからなのか、ダイレクトに見つけたのかもう忘れてしまいましたが、書き出しで登場したCsideくんのブログ(ブログというか、それが、「はてなダイアリー」というサービスだったのです)にたどり着くわけです(彼は多くの人と同じように、ネット上に複数のアイディーとペルソナを持っていますから、もはやなんという名前で呼ぶのが適切なのかわかりませんが、多分一番メジャーな呼び方で)。

そのときのことは、私は今でもはっきりと覚えています。Csideくんは、とある記事をアップしていました。「公園に散歩に行くと、子どもたちが遊んでいる。それを眺めている、自分。云々云々」。私はCsideくんの記事をいくつか眺め、彼が東京の私大で教育に関わる何らかの勉強・活動をしているようだ、ということ(私は大学で教育哲学を勉強したいと思っていました)、さきの記事の質感・文章から感じ取れる体温、のようなものにとても興味を持ち、初めて、全く知らないし関係もない誰かの記事に「コメント」をしたのです。今のようにTwitterで有名人やその辺の興味ある人にリプライを突然投げても誰も何にも不思議に感じない空気というものは、当時の私にも、世間の風潮としても、おそらくありませんでした。コメントは「おそるおそる」なされるもので、勇気を出して送信ボタンをクリックした記憶があります。コメントをしたものの、怪しまれないだろうか。返事は返ってくるのか。瞬時に通知が飛び交う時代ではなかったので、そんなことを考えながらその日を終えました。しばらくすると彼からコメントへの好意的な返信があり、ほっとしたことを覚えています。そこで、「はてなスター」(当時はただの黄色い☆でした)というシステムから、同世代の人たちが「はてなダイアリー」というサービスでゆるやかなクラスタを作っていることを知りました。Csideくんの記事にはてなスターをつけている、某さん、某さん、某さん、あ、この記事もこの記事も、みんなが大体つけている。この人たちは、ゆるやかにインターネットの世界で繋がっているんだ。そういうことを、そういうサービスがあることを、初めて知ったのです。たまたまCsideくんのクラスタには面白い(本当に、神がかっているように面白いんですね)記事を書くはてなダイアラーがたくさんいました。そして、その人たちが、おそらくほぼみんなプラスマイナス1~5歳くらい(ほとんど年下はいない)で、同い年の人たちもかなりの数いる、ということがわかってきました。私のBANされ出身大学の人はなぜか一人もいませんでしたが、どうやら東京にかなりの数のおなかまの人がいるようだ、ということがわかってきました。私は、毎日夢中で彼らの文章のログを読み、遡れるだけ遡ったら次の更新を待ちました。京都という地方都市で一旦足止めを食らった、孤独だった私には、大学生の彼らが日々悩み、楽しみ、苦しみ、あるいは笑いやネタに昇華された文章群が、人と触れ合うという渇望をぐんぐん満たしてくれることに夢中になっていました(そのクラスタにいる人たちは極めて優秀で個性ある人が多かったです)。まあ、そんなこんなで、私もいつの間にかはてなにアカウントを作り(最初は本名「さとみ」を少しもじったsatomimiiというIDでした、自分と違う名前を持つには「恥ずかしい」という自意識が邪魔をしたんですね)、クラスタの人におそるおそる☆をつけ、少しずつ、その仲間に入りたい、という意思表示をはじめました。私が書いていたのは、不本意BANと日常への鬱憤、彼氏との云々で、特段面白いことではなかったと思いますが、インターネット上に文章を書き散らす、ということをきちんとまとまった期間やったのは、このときが初めてだったように記憶しています。ちょうどそのクラスタには同い年で持病のある浪人生の男の子がいて、東京の私大を目指していたこと、彼も持病というティーンにとってやや重いつらさを抱えていたので、すぐに仲良くなり、☆を付けあうようになりました。クラスタというのは面白いもので、私が☆をつけて「見ています」というサインを出したとしても、相手が私のダイアリーに☆を必ずつけてくれるわけではない。記事や人に興味を持たれないと、☆やコメントというのは飛ばないわけです。ですが、私のダイアリーに某Aさんから☆がつかなくても、私に☆をつけてくれる某Bさんと某Aさんは☆をたまにつけあっている。会ったこともないし、まして「なかまにしてください」というような具体的な言明を飛ばす先もなく、ウェブログでIDを介してただふんわりと、あの人同士がつながっている、そしてあの人と私はつながっている、なんとなくの輪郭が浮遊している、という世界は、当時高校生だったときに流行していた前略プロフィールmixiでの顔の見えるインターネット上のコミュニケーションとは違い、匿名性とその人の人格そのものの生々しさの「あわい」のようなものを表していて、私にはとても心地よかった。そうしてネトゲをやめ、色々な人とのダイアリー上での交歓に、☆から☆で繋がる新しい面白い人のブログを読み漁ることに、すっかりはまってしまったのです。

 

2008年、冬。

 さて、相も変わらず勉強もせず(志望大を変えなかったのと、あまりやる気がおきませんでした)インターネットばかりしていた私は、ここでちょっとした二つの事件を経験します。ひとつは、遠距離をしていた彼氏に浮気されふられる。まあ、かなしいですね。もうひとつは、年末にCsideくんが関西のほうにくるので、会いませんか、となったということです。浪人生も年末が近づいてくると、そろそろ受験前ということでそわそわしてくる時期かと思うのですが、なんとそんな時期、しかもクリスマスの直前に私は大好きな彼氏(大学一年生)にふられてしまいます。よくある話だね。でもそのときは荒れに荒れて、はてなダイアリーで感情爆発ヒステリー女になりあがり、周りの優しいダイアラーにレスポンス的な記事を書いてもらったり、なんかわちゃわちゃやっていた記憶があります。不本意浪人だったので、親への恨みが爆発していました。どうどう落ち着け、と言いたいけど、ティーンなのでしょうがない。そんな悲しい出来事の直後に、私は初めて「オンラインの人と会う」=「オフ会」ってやつを経験します。「はじめてのおふかい」だね。Csideくんが発端となって、そこから見つけた何人かの人とははてなスターを交換し合ってちょっとクラスタになじみはじめた?気がしていた私は、「はじめてのおふかい」にめちゃくちゃ緊張していました。高校生の時はコミュ障ではなかった(友達がたくさんいました)のですが、不本意BANによってひきこもりの根暗になって、ジンセーゼツボーのティーンとしてインターネットばかりしていた私は、人とどうやってコミュニケーションをとっていいのか、さっぱりわからなくなっていました(まあ、今でもよくわからないのですが)。また、インターネット上の人格とリアルの人格というものの違いもよくわからなかったし、とにかく、とにかく緊張していました。当日は京都駅のどこかでCsideくんと待ち合わせでした。「私はこういう恰好をしています」というメールを飛ばし、はじめまして。…と、ここまで引っ張っておきながら、初めて会った時の印象や話したことを、私はほとんど何も覚えていません。おそらく相当緊張してたんでしょうね。「なんとなくあの辺のカフェでちょっと話をした」くらいの記憶しかありません。なので、「はじめてのおふかい」についてはこれで終わり。Csideくんとはその後何年か経って恋人になり一緒に暮らす期間があるんですよ、なんて、当時の自分に言っても絶対信じないでしょうね(今は、なかよしのともだちですが)。

 

2009、冬から春へ。19歳に。

 はじめてのオフ会も経験した私は1月の誕生日に19歳になります。さて、勉強を全くしていなかった私も、彼氏を失い、もし二浪でもしたら、これはまずい、首をつるかもしれないぞ、と何となく思い始めました。試験は2月なので、急ピッチで勉強を始めます。一日12時間くらいやってた気がします。なんか、とにかく突然がんばり、BAN大(もはやそんな大学が実在するような気がしてきますが)の哲学科に合格。今回は、入学金も授業料も、親が相当慎重に振り込んでくれたので、晴れて入学が決まりました。よかったね。4月、東京へレッツゴー。そこで、冒頭で述べていた「はてなグループ」(このグループがいつから運用されはじめたのか、残念ながら覚えていませんが)に所属、というか、関係している人たちの大規模オフ会というものに、初めてチャレンジします。その時は入れ替わり立ち代わり、15~20人前後の人が参加していたように思います。はてなダイアリーを始めた経緯の中で出てきた、持病を持つ某くんも志望大に受かり、参加すると聞いていたので、私としては、同じ浪人生として一緒に戦った?彼と初めて会えるのを、とても楽しみにしていました。と、同時に。物凄く面白く、文才豊かで向学心のある人や個性的な人達に、文章という部分以外で、生身の身体を持つ人として会うこと、その人たちから現実で眼差されることに、コミュ障になってしまっていた私はものすごい恐怖を抱いていました。その辺の年頃に特にありがちな、「自分がどう見られているかを過剰に気にする」病気に、もれなく私も罹患しておりました。自分が感情をぐちゃぐちゃに書き散らかしたオンライン上の人格と、オフラインでのコミュ障で人見知りの自分にどう折り合いをつけて、どんな振る舞いをすればいいのか全くわからなかったんだと思います(これも、今でもよくわかりませんがw)。「お花見」ということで企画されたその会に、これまたおそるおそる、参加することになります。初めて私を駅で見つけてくれたのは、持病を持つ浪人生の某くんでした。私は記憶する限り、相当ヒステリックで根暗な文章を書いていた気がしますが、その印象からなのか、某くんは私を見つけて「なんかすごく意外な雰囲気だった、想像と違った」と伝えてくれた記憶があります。私も、某くんがこんな顔だったのか、こんな服を着るのか、こんな靴をはくのか(なんでそこまで覚えてるのかは知らないw)ということにビックリしました。オフ会あるあるですね。その後は、もう、あの文章が!この顔のこの!こんな人!わー何?可愛い人だ!うわ!なんだこれ!イケメンだ!なんだこれ!と思っているうちに、オフ会は終わっていました。いつもダイアリーを読んでいて、その人の雰囲気や温度感や声色を想像していたあの人が、現実に目の前に、しかも大量にいる、という情報量の多さに、ただ圧倒される。そんなことを、経験したのでした。

 

その後。

 紆余曲折あり、私は自分のはてなダイアリーを閉鎖し、いつからかサービスが始まって少し経ったばかりのTwitterに自分のインターネットでの人格を移していきます。satomimiiからsuperfluou_sというIDに切り替え、名前も「ふわふわ」と名乗っていましたが、最終的に「毛玉」という人格に落ち着きました(Twitterのsuperfluou_sは捨て垢になっていて、恥ずかしながら大学2年頃までの私が残っています)。大学生のとき、私は本当にTwitterにドはまりしていました。ちょうど、アルファツイッタラーという言葉が流行っており、その頃のTwitterの言論世界は、私にとっての切実な「リアル」でした。「お花見」のオフ会以降の大学生時代、私はほとんどオフ会には参加していません(ただ、オンラインで仲のいい人とスカイプで夜中から明け方まで話したりするのにはハマってましたね)。

界隈の人(私やはてなダイアリー起点のクラスタの人は、自分たちをそう呼びます)はその後の大学生時代もずっと、Twitterはてなダイアリーで繋がり、オフ会を重ね、勉強会(さきに述べたように向学心が強い人がたくさんいました)をやったり、けいどろをしたり、飲み会をしたり、そしていつの間にかどんどんみんな社会人や研究者になり、結婚をし、子どもを産み、そして今でも、繋がっている界隈の人はかなり多くいます。もちろん界隈からフェードアウトしてしまった人はたくさんいますが、クラスタというゆるいつながりは膨張に膨張を重ね、最終的に関係してきた人(この人のID見たことあるな、間接的に繋がってるな)という人は100人200人レベルではないと思います。この界隈は最初「インカレサークルはてな会」と名乗っていたので、大学のサークルのようなノリで、人がつながっており、当たり前のように男女の出会いの場でもあり、その中でくっついたりはなれたり、結婚したりといったこともたくさんありました(結婚はそんなにいっぱいはないですが)。私は大学時代に大きな病気をやってしまって、結局7年大学に通ったのですが、その後社会人になり、コミュニケーションの苦手さを少しだけ克服し、また界隈の人と「出会いなおし」のような形で飲みに行ったり、お茶をしたり、美術館に行ったりするようにもなりました。浪人生~大学生時代の私にまるで興味がなかった人(笑)とも、逆に当時はIDや文章を知らなかった人とも、今になって仲良く交流したりしていて、「あれからもう10年なんだ、不思議だね」とか、「あんなことがあったね」と、いまだに盛り上がります(この間も界隈の男の子が結婚したので、集まれる人で勝手に集まって二次会をしたりしましたね、界隈を全く知らない新婦の方が、私達の奇妙なつながりをみんなにレクチャーされているのが、なんだかとても不思議でした)。

そ・ん・な!私とインターネット言論空間の橋渡しを初めてしてくれた「はてなダイアリー(現・はてなブログ)」と、界隈の人の学生時代の懐かしい日記等が読める「はてなグループ」のうち、この間はダイアリーのサービスが終了、今回はグループが完全にサービス終了する、というわけで、私は、私にとっての青春がサービス終了とともにあっけなく「Forbidden.」(←でOK?)になってしまうことが悲しくて筆を執ったわけですが、さすがにここまで振り返ると、だいぶ満足しましたし、ちょっと疲れてしまいました。

冒頭で、はてなグループサービス終了によって「大学生時代のインターネット上の人間関係の全青春のデータが失われてしまうようで」と書きましたが、同時に、ほぼオフ会に参加しなかった私は、自分をグループページの中にほとんど見出すことはありません。ただ、今でも繋がっている人たちが、昔どんな息遣いで活動していたか、集約されていて閲覧できる場がここだけなので、やはり、サービスの終了はとても悲しいものだな、と思うわけです。もう繋がっていない、今どこで何をしているのか、生きているのかさえ知らないような人のログが、また一つ消えるので。

クラウド化とデータ化の現代では、こういった事態は、仕方のないことだけど。Csideと、「20年後にはTwitterもなくなって、あの頃はTwitterが全てだったって言うのかな、インターネット老人会だね、本当に」と言って笑いあったさっきの瞬間が、データとしてではなく生々しい私の記憶の中に残り続けるように、消えるもののことを静かに想う、そしてまた、「オンラインで10年繋がっている」人たちと、何年後、何十年後、つながっているのだろうか、あの人と、ちゃんとつながっていられるだろうか、できることなら、つながっていたい。そんなことを、しんみりと考える夜なのでした。

 

毛玉

 

追記:「ゆめゆめ」というブログの名前は、私が初めてはてなダイアリーをオープンしたときの、自分のページの名前を、そのまま持ってきました。「ゆめゆめわすれることなかれ」=「絶対に忘れないで」という意味と、「ゆめゆめ」という語感のかわいらしさから、当時その名前でサービスを利用開始した、淡い記憶があります。